アフリカの時間観『ササ』と『ザマ』:生きる現在と経験された過去が織りなす未来
はじめに:多様な時間の地平線
世界には、私たちが日常的に慣れ親しんでいる直線的な時間観とは異なる、多様な時間の捉え方が存在します。過去から現在、そして未来へと一方向に流れる時間という見方は、特定の文化圏、特に近代西洋社会において強く共有されてきたものです。しかし、世界の様々な先住民文化に目を向けると、時間とは何か、どのように経験され、どのような意味を持つのかについて、深く考察させられる視点に出会うことができます。
本稿では、アフリカの多くの文化に見られる独特な時間概念「ササ(Sasa)」と「ザマ(Zamani)」について掘り下げます。この時間観は、現在と過去が密接に結びつき、未来がその延長線上に形作られるという考え方を提示し、私たちの時間認識に新たな洞察をもたらすでしょう。この概念を理解することは、異文化理解を深めるだけでなく、現代社会における時間の使い方やコミュニティのあり方について考える上でも、豊かな示唆を与えてくれます。
『ササ』と『ザマ』:アフリカにおける時間の二つの層
アフリカの伝統的な社会における時間観を体系的に研究した学者の一人に、ケニア出身の神学者ジョン・ムビティがいます。彼の研究によれば、アフリカの多くの文化において、時間は主に「ササ(Sasa)」と「ザマ(Zamani)」という二つの概念によって構成されていると考えられています。これらは単なる過去と現在、未来という区分ではなく、人々の経験と存在論に深く根ざした時間感覚を表しています。
ササ(Sasa):生きられた現在と近い未来・過去
「ササ」は、現在と、それに密接に関連するごく近い未来および過去を含む時間領域を指します。具体的には、人が直接経験し、記憶している出来事、あるいはこれからすぐ経験すると予期される出来事が「ササ」の範疇に含まれます。これは「今生きている時間」であり、行動や計画が具現化される場でもあります。例えば、数日前のできごと、今日の出来事、明日や数日後の予定などが「ササ」に属すると考えられます。
この「ササ」の時間は、非常に具体的で実践的な意味を持っています。人々は、自分たちの目の前にある現実や、手が届く範囲の未来に焦点を当てて生活しています。まだ経験していない、漠然とした遠い未来については、西洋的な時間観のように「無限に広がる」ものとしては捉えられにくい傾向があります。未来は、現在から生み出されるもの、あるいは「ササ」の延長として認識されることが多くあります。
ザマ(Zamani):無限の過去であり、現在に息づく時間
一方、「ザマ」は、「ササ」の時間が過ぎ去り、個人の記憶から薄れてもなお、共同体の記憶や口頭伝承、神話の中に生き続ける、より広範な過去の領域を指します。これは、遠い祖先の出来事、民族の起源の物語、共同体の伝統や規範が形成された歴史などが含まれます。
「ザマ」は、単なる過ぎ去った過去ではありません。むしろ、それは生きた過去として、常に現在に影響を与え続けていると理解されます。例えば、祖先は「ザマ」に属しますが、彼らは共同体の精神的な支柱であり、儀式や祈りを通じて現代の「ササ」に介入し、影響を与えることができると考えられています。そのため、「ザマ」は西洋的な直線的時間観における過去とは異なり、現在と絶えず対話し、共同体のアイデンティティを形作る源泉となっています。
背景と哲学:共同体主義と口頭伝承
この「ササ」と「ザマ」に基づく時間観は、アフリカの多くの伝統的な社会が持つ共同体主義的な世界観と深く結びついています。個人は孤立した存在ではなく、家族、氏族、そしてコミュニティ全体の一部として認識されます。時間もまた、個人の経験だけでなく、共同体の共有された経験として捉えられる傾向があります。
口頭伝承の文化も、この時間観の形成に大きな影響を与えています。文字を持たない社会では、歴史や知恵は物語、歌、ことわざを通じて次世代へと伝えられます。これらの物語は、単なる過去の記録ではなく、「ザマ」の出来事を現代の「ササ」において再現し、人々に教訓を与える役割を果たします。語り継がれることで、「ザマ」は常に更新され、共同体の意識の中で生き続けるのです。
また、祖先崇拝の習慣は、「ザマ」に属する祖先が「ササ」に生きる子孫たちの幸福や繁栄に深く関わっているという信仰を反映しています。祖先は、生者と死者の間の連続性を象徴し、時間的な隔たりを超えて共同体のメンバーシップを維持します。
現代社会への示唆:現在への集中と共同体の再評価
アフリカの「ササ」と「ザマ」の時間観は、現代社会、特に未来への過度な不安や個人主義に傾倒しがちな私たちの社会に、いくつかの重要な示唆を与えてくれるかもしれません。
第一に、現在への集中の重要性です。西洋的な時間観が未来の計画や目標達成に重きを置くのに対し、「ササ」は今この瞬間の経験と行動に価値を見出します。これは、マインドフルネスやウェルビーイングといった現代的な概念とも通じる側面があり、未来への過度な心配から解放され、今をより豊かに生きることの意義を再認識させてくれます。
第二に、過去と共同体の役割の再評価です。 「ザマ」は、過去が単なる過ぎ去った時ではなく、現在に意味とアイデンティティを与える生きた資源であることを示します。私たちの祖先の知恵や文化的な遺産をどのように現代に活かすか、そして共同体の絆がいかに個人の存在を支えるかを考える上で、重要な視点を提供します。教育現場においては、歴史を単なる事実の羅列としてではなく、現在に影響を与え続ける「生きた物語」として教えることの重要性を示唆するでしょう。
第三に、持続可能性への視点です。アフリカの伝統的な時間観は、自然環境との調和の中で営まれてきました。過去の経験や共同体の知恵を重んじ、遠い未来よりも「ササ」の範囲で責任を果たすという考え方は、短期的な利益追求に陥りがちな現代において、より持続可能な選択を行うためのバランスの取れた視点を提供できるかもしれません。
まとめ:異なる時間観が拓く未来
アフリカの「ササ」と「ザマ」の時間観は、時間という普遍的な概念が、文化や哲学によっていかに多様に解釈されうるかを示しています。この時間観は、無限に広がる未来への展望よりも、現在と過去の経験に深く根差した生き方を重視します。
このような異文化の時間観に触れることは、私たち自身の時間に対する固定観念を揺さぶり、世界を多角的に捉える力を養う上で不可欠です。それは単なる知識の習得に留まらず、現在を深く生きることの意味、過去との対話の重要性、そして共同体の中で個がいかに存在するかについて、私たち自身の価値観を問い直す機会となるでしょう。異なる時間の地平線を知ることは、私たちの未来をより豊かに、より思慮深いものへと導く一歩となるはずです。